安江の姓                  TOP  



安江氏は藤原姓富樫(とがし)氏の支流であるが、「安江系図」では平重盛(たいらのしげもり)であり家紋も「アゲハチョウ」で平氏流である。
揚羽蝶は桓武天皇の皇子を始祖とする、桓武平氏の代表的な家紋である。

「安江系図」によると富樫(とがし)氏の十三代経高のとき、江沼郡安江郷を領有し、平盛高(たいらのもりたか)(富樫盛高)はこの土地にちなんで安江盛高と称した。
現在は、安江金箔工芸館江沼郡にあり、近くには安江町もある。

安江神社(安江八幡社・鍛冶八幡社)は、仲哀天皇・応神天皇・神功皇后・天御中主命を祀る。
安元二年(1176)石川郡安江の郷士安江次郎盛高、本社末社を再興せり

安江氏は木曽義仲(源ノ義仲)に加勢し今井四郎兼平らと共に義経と戦うが、寿永じゅえい3年(1184)近江の栗津原で木曽義仲は討ち死にした。
安江氏は伊勢山田の御師足代玄蕃太夫(あじろげんばんだゆう)を頼り、再興する時を待つ 。 

苗木藩(なえぎはん)
恵那市岩村町あたりに土着した加藤遠山氏は、早い段階で岩村遠山氏・苗木遠山氏・明智遠山氏のいわゆる遠山3家になった。

嘉慶二年(1388),安江左衛門尉政氏は、遠山氏、もと加藤氏すなわち加賀の藤原氏で同族である苗木藩(なえぎはん)を頼った。
そして、村雲、柴田氏を伴って白川の神土(かんど)に移り、越原城と野原城を築いた。
神土(かんど) 東白川村は文明(1470)のころは、安江中務尉基政入道光安(やすえなかつかさのじょうもとまさにゅうどうみつやす)と称する者がこのあたりを知行(ちぎょう)した。

当時遠山氏は武田氏の支援を受けており、文明十二年(1480)、安江氏は遠山氏から白川、佐見筋三六郷の総鎮守として、白山権現を再興した。

天正十年1582)、兼山城の森 長可(もり ながよし)の攻撃にあい、越原(おっぱら)城と野原城は落城し、浅野家に仕官した者、郷土となった者がある。
  当主は安江基政であった。


我が家の提灯の家紋


大山白山神社
大山白山神社(おおやまはくさんじんじゃ)は、岐阜県加茂郡白川町の白山(標高862m)の山頂にある。
文明十二年(1480) 時の野原城主安江中務尉基政が、神殿を再興して、以後安江氏一族が社殿の修復にあたっている。
全国4000社の白山神社の内20%が岐阜県に有り、県内でも3つしかない格式の高い白山神社です。
この一帯には白山神社同様スギの大木が立っていたそうですが、伊勢湾台風で倒れました。
神社の境内の天然記念物の大杉やスギの大木が、山頂の風当たりが強い所にもかかわらず伊勢湾台風でも倒れなかった神木の不思議を感じます。

安江金箔工芸館
米粒ほどの金から畳一枚の金箔をつくる技術、奈良の大仏や金閣寺、日本は金で覆われている、黄金の国ジパング。

尾城山(おしろやま)に城?
山頂は広々している尾城山(1133m)は、尾城とは尾根にあった城という意味で、のろしを上げると大威徳寺城に伝わるしくみの城が有ったという。

学校法人 越原学園
創立者、越原 春子は、明治18年岐阜県加茂郡越原村(現東白川村)に生まれる。
戸籍名は、はる。父彌太郎二十歳、母げん十八歳。江戸時代、越原家は代々庄屋を勤めていたが、幕末以来家産傾き、明治四年に旧庄屋の家屋を取り壊してその材を売却。
「名古屋女学校」は、大正四年(1915)越原和・春子夫妻によって葵町に創立されました。
(名古屋帯は越原春子が考案)
名古屋女学校は、現在の「名古屋女子大・短大・高等学校」と引き継がれています。

御師
御師とは全国津々浦々に伊勢信仰をひろめた権禰宜(ごんねぎ)たちのことで、はるばる伊勢を訪れた参宮客を自分の屋敷に泊め、神楽を奏し、お祓(はらい)して「お札」を授与して信仰をひろめた。
伊勢山田地方では、全国各地から参宮があり、案内、先導役 御師(おんし)を務めていた彼らは自治行政機関として三方会合と呼ばれる組織を持ち、この地方に大きな影響力を持っていた。

山田羽書 宿泊、祈祷などの支払いを、「引換証」として山田羽書を発行した。
これがすこぶる便利なため、他地方まで流通し3世紀の長きに渡り使用され、明治維新まで続いた。
現在、日本最古の紙幣と言われる伊勢国山田地方で発行された「山田羽書」は日本銀行の貨幣資料館に展示されている、これを紙幣と呼べるか問題もあるが、紙幣とすると、ヨーロッパより早くから日本の紙幣が流通していた事になる。

長享の一揆
満春の子教家の時に富樫家は二家に分裂して争うことになった。
政親軍は文明6年に一向宗(本願寺門徒と白山衆徒)が味方し、幸千代軍を攻撃し、勝利を納めた。
その結果農民門徒等が本願寺門徒の威力を利用して、年貢納入を拒否し、加賀の守護の権威は無きに等しいものとなり、政親は門徒衆への弾圧の挙に出ることに成って、長享の一揆と成る。
1488(長享2)年の長享の一揆(高尾城攻防戦)で冨樫政親の家臣、安江弥八郎と安江三郎は戦死、安江和泉は政親と共に自害したといわれる。

木曾義仲
木曾義仲(1154〜1184)は、武蔵の国大蔵で誕生。父・源義賢は源頼朝の父・義朝の弟で、義仲は源頼朝の従弟。幼少の時、父・義賢が甥の源義平(悪源太)に殺され、その後斎藤別当実盛らの情により、木曾の山中に匿われ成長。治承四年(1180)、似仁王の令旨によって平家追討の挙兵をし、寿永二年(1183)、砺波山で平維盛を敗り、入京。そこで後白河法皇からその功を賞して「朝日将軍」の称号を与えられた。ところが、その後の木曾義仲軍の粗暴な行為に困った後白河法皇は、とりあえず平家追討の院宣を義仲に与え都から遠ざけ、その隙に鎌倉の頼朝に上洛を促した。密かに頼朝に義仲追討命令をだした。寿永三年(1184)、義仲は頼朝が差し向けた源範頼、・義経軍と戦って敗れ、近江国粟津ヶ原で戦死した。

今井兼平 
今井兼平(1154〜1184)本姓 中原兼平・四郎。信濃国西筑摩郡今井領主。木曾四天王のひとり。
信濃守・中原兼遠の息(四男)。
木曾義仲の乳母子。兄に樋口兼光、妹に巴御前。信濃国今井の地を領して今井を称した。

森 長可(もり ながよし)
信長は厳しく関所を設け改めていた。
長可は先を急ぐと馬上から名乗っただけで、関所を通り過ぎようとした。
役人達は槍ぶすまで長可の行く手をさえぎると、怒った長可は役人達の首をはねてしまった。
長可は事の次第を信長に述べ切腹を申し出たという。
さすがに信長も長可にあきれ果てたがこれを許した。
長可は初陣で27もの首を取り鬼武蔵とよばれ恐れられていた。
槍術に優れ非常に気性の荒い人物で、些細なことで怒り槍で突き殺したり、
命令違反や軍規違反を犯すが信長から重い処分は一度も受けていない。
信長死亡で、周囲を敵に囲まれた長可は、諸将の一致団結される前に各個撃破する事を決め、
一年足らずで、米田城 堂洞城 御嵩城 苗木城 大森城 今城 小里城 金山城 上恵土城 下麻生城 妻木城 須原城 加治田城 野原城 岩村城 洞戸城 など抵抗勢力を完全に駆逐したおそるべき人物。

義経と弁慶
1187(文治3)年 謀反を疑われ兄の頼朝に追われる義経と弁慶は奥州平泉の藤原氏の下に逃れようとした。
安宅の関の関守は富樫左衛門泰家(とがしのさえもんやすいえ)であった。
冨樫泰家は、義経だと気づいていたが、主君を思い涙ながらに打ち据える弁慶の懸命な心根に打たれ、関所の通過を許可する。

日本における姓
明治政府は1875年(明治8)に強制的に苗字を必唱せしめた。
長年苗字をもつことが許されず、字も書けない百姓町人は、困って部落の長に相談した。
また有名な公家や武家の苗字をつけてお叱りを受けやしないかと心配する者もあったという。

梅鉢の家紋
平氏の一族であり、揚羽蝶の菅原氏は菅原道真公が愛した梅をかたどって梅鉢の家紋にしたと言われます。

佐久良田神社
神仏習合の白雲山近松寺は廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって廃寺となりその後、末社事比羅大神・秋葉大神・猿田彦命を合祀し、佐久良田神社としたという。

五介の滝
盗賊五介の滝の岩屋は滝のカーテンの中に有り、8畳をゆうに越す広さであったと云われるが、村民が総出で埋めた為、今は見る事が出来ない。

東白河タカブ研究会
東白河タカブ研究会は、地蜂の養殖を研究しているという。
この地方では、昔からタカブは貴重な蛋白源として重宝されており、地方によって、「クロスズメバチ」「ヘボ」「地蜂」「タコベ」「タカブ」「スガレ」などと呼ばれている。

帰雲城(かえりくもじょう)
榊間・山下両氏と帰雲城との関わりが有ったとされるが定かでない。
内ヶ島氏は、白川郷で金銀鉱山を経営していた。
天正13年11月29日(1586年1月18日)山の崩落した土砂により、白川郷保木脇にあった帰雲城とその城下町、そこに住んだ人々、そして内ヶ島一族もろとも埋没した。
この天正大地震の引き金は、荘川の水が金の採掘の坑道に流れ込んだ事による山の崩落であろうと推測している。

宇枯(うかれ)峠 の名の由来
神田(じんでん)橋から太布登(たふと)神社に通じる、宇枯(うかれ)峠 の名の由来
この地では、発情する 、色気付いて浮かれるなどの事を、「おかれる」と言う言葉を使う。
峠で、赤河(あこう)と黒川の男女が浮かれた事が、この峠 の名の由来といわれる。

太布登神社 白川町黒川8713番地
榊間・山下両氏の祖先が此の神社を創建。
伊勢国 から黒川に來住した。榊間家は熊野神社と太布登神社を崇敬しているという。
榊間の先祖。西尾藤蔵国頼(にしおとうぞうくにより)。家紋は抱き柏
黒川の榊問家の先祖は西尾藤蔵国頼という城主であったようだが?
西尾姓は三河国幡豆郡西尾が起源である。
榊間の姓は西尾が城主であった頃、伊勢神宮の榊の間にて、年々太太神楽(かぐら)をあげた、その信仰心の厚く故をもって榊間の姓を賜った。
黒川村の榊間の先祖、西尾藤蔵国頼(にしおとうぞうくにより)は、永禄年間(1558年から1570年)に、伊勢国 から下黒川の小坂に来た落人(おちゅうど)。
内ヶ島氏の重臣 尾張徳川家に重用された山下氏勝と同じ山下の姓も榊間家に伴って来往した。
(屋号、国頼) 家紋は丸に抱き柏。
藤蔵は其の先を詳にしないが、由緒ある落武者の跡を残して居り、国頼の所蔵の乗馬の轡(くつわ)、包永(かねなが)銘の短刀、天国銘の刀によっても元武家であった事を物語っている。
榊間家の太布登(たふと)神社の御神体の、十一面観世音菩薩の尊像は、閻浮檀金(えんぶだんこん)(黄金)で鋳造され、一寸二分(五・四p)の大きさである。
この像は、良辨大僧正(689年代)の創作と伝えられ、源新羅三郎義光の胄の八幡座に用いたもので、故あって同家に伝わり、現に太布登神社のご神体として祀られている。
大草城(おおくさじょう)は、愛知県小牧市にかつて存在した日本の城である。16世紀中頃に廃城となった。
現在は白山神社の境内に石碑と案内板が設置されている。
西尾式部道永と言う人物によって築城されたとされているため、「 西尾城」とも呼ばれる。大草城の築城は古く、戦国時代以前の文安年間(1444〜49)といわれています。
大草城を築城したのはこの地の豪族だった西尾式部道永という人物です。
西尾氏はもともとは現在の愛知県西尾市の出身だったらしく、通永は岩倉城の伊勢守系織田氏に仕えて春日井一帯を領しており、善政を行っていた領主だったそうです。
文明の頃尾州の春日井郡野口の城主西尾式部道永城ひて住み、刈安城と称し、関ヶ原の役に至り、其の後裔西尾次郎八有馬玄馬と戦ひ敗して自刃せるを里人之を祀れり。之を刈安権現、刈安神社 (かりやすじんじゃ)と称せり。
天国作(あまのくにさく)の平家重代の宝刀「小烏丸(こがらすまる)を所蔵していた。
大阪府吹田市の西尾家は、皇室や伊勢神宮の新嘗祭(にいなめさい)などに、米や野菜のお供え物を献上する仙洞御料の庄屋を務めた、関わりは?


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